甘えと限界
2025/06/13
以前、私が転換性障害と診断されたときのことを思い出した。
診断書があれば、体育の授業に参加しなくて良くなったし、体育祭も出なくて良くなった。
診断書が出る頃には私は杖をついていて、偶に歩くことができないくらいの痛みがあった。
両親が帰省している間、私は床に寝転んで少しの痛みと、甘い誘惑に身を委ねていた。
一度外に出ると、杖がないと痛くて歩くことが難しいくらいだった。
以前に「病人は無限に甘える」と聞いたことがあった。病気になったから、支援を受ける。
できないことがある人間に対して、支援があって、それをありがたく受け入れた。
けれどもそれが無限に甘えている事になるのか、支援を受けているだけなのか、わからなくなった。
常に痛みにのたうち回っているわけではないし、常に歩けない痛みがあるわけではなかった。
それまでは、痛みに耐えながら体育の授業を受けていたし、杖もなしに歩いて、混んだ電車で立ったまま1時間くらい揺られて行き帰りをこなしていた。
それらはとても辛かったし、苦しかったし、文字通り苦痛に堪えながらの日々であった。
私がそれを甘んじて受けていたのは、甘い誘惑と小さな頃からの義務感であったと思う。
その強固な義務感から開放された私は、杖なしには歩けなくなってしまった。杖こそが、私の不自由を象徴し、周囲に示すものだったから。
武器であって、呪縛であった。私はそれに依存して、二度と立てなくなることを憂いた。
だから私は、どれだけ痛くても、それが途中で踞るほどでも、学校に行った。
大きな話をここでする気はないけれど、disabilityに対する意識の問題なのだと思う。
なにかの能力が欠如している、ただそれだけなのに、病気っていうと、障害っていうと「保護対象」みたいに感ぜられてしまう。
それに対して配慮が必要なのは事実なのだけど、それはどんな人間に対しても変わらないこと。
人それぞれにできないことがあって、それが私の場合は、痛みなく生活することであって、心が健康であることだっただけ。
そういう意識で生きていこうかなと、そう思った。
私は痛みを知っている。それが他人のものと一致するわけではないけれども。
だからちょっと、もうちょっと、優しい人間になれるかななんて、思いたい。