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by Minerva_Juppiter

鑑賞ときどき感傷

2026-07-13

自傷的な鑑賞について。

感傷とは良く言ったもので、私にとっての鑑賞というのはしばしば自傷行為に相当する部分があるように思う。

いったい何のために、ぼくらは本を読むのか? 君の書いているように、幸福になるためか? いやはや、本なんかなくても、ぼくたちは幸福になれるだろう。 それに、幸福になるための本なら、いざとなれば、ぼくたち自身でも書ける。 いいかい、必要な本とは、苦しくて辛い不幸のように、誰よりも愛している人の死のように、すべての人から引き離されて森に追放されたように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。 本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。

フランツ・カフカ 1904年1月27日20歳 オスカー・ポラックへの手紙より

この言葉が象徴するように、私の指す、芸術の言い換えとしての表現というのは、決して心地よいものではないだろう。それどころか苦しくなるようなことのほうが多いと思う。それでも私はそのような表現を模索していたいし、鑑賞をしていたい。

以前に山口一郎(サカナクションのボーカル)が言っていた「偽りの感動」にも関係しているように思う。私は高校の頃から「感動」というものについて考えてきた。感動と聞いて一つ強烈に思い浮かぶのは泣くという行為だと思う。しかし、同じ泣くにしても、嬉しかったり悲しかったり、理由も感情も様々である。泣くのにふさわしくない感情はみあたらないように思われる。私は泣くという行為は非常に激しい感情の表現方法というだけだと思う。そして感動とは、心が動くことだと私は思っている。

だからこそ、偽る(自らを騙す)こともできると思うのだ。幼児は母親が見ていないときには転けても勇敢に立ち上がるのに、母親が見ているときは立ち上がろうともせずに泣きはじめるらしい。やろうと思って(その年齢で意図を持っているかは微妙だが)泣いている。大人だって同じことだと思う。可哀想な人が頑張っているテレビ番組を見て涙を流す。名演と言われている公演のCDを流して涙する。痛快な復讐劇を目撃してその記憶に涙しながら応援する。素晴らしい、とても感動的だ!

それらには気づきがないように思う。可哀想な人が居ることを知ったり、名演をした人が居ることを知ることは確かに気づきかもしれないが、そういうことではない。少々詩的な言い方をすれば、心の一部になるような気づきではないように思うのだ。そういう意味で、私のいう感動は氷結した海が砕かれることであるし、それはそれまでの自分の心の構成を壊してしまうという意味で自傷的だと思う。

私の作ったものが誰かの心の一部になればそれはとても嬉しいことだし、私も心の一部になるような作品を求め続けていたいと思う。