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by Minerva_Juppiter

芸術のリテラシーについて

2025/11/22

まず,ここで取り扱う芸術のリテラシーという言葉の定義について明確にしておく.
芸術とは,表現する活動であり,その表現を受け止める活動であって,意味のない(受手が解釈できないという意味ではなく,為手が意味をなく構築した)ものを綯交ぜにした言葉ではないことに留意してほしい.
さて,次にリテラシーはここでは,表現されたものを解釈するためのプロトコルのような意味で使っている.
つまり芸術のリテラシーとは,為手による表現を受け取るために決まっているプロトコルについての話である.
もしかしたら,芸術を鑑賞するときのマナーみたいなものや,意味のないものに値段がつくのを黙っていることのような誤解をされるかもしれないので,事前に書いておく.

私は上記のような,芸術のリテラシーが存在すると考えている.
当然のことながら,文学ではその書かれている言語の文法に則った記述が概ねであるべきだし,そうでなければ為手が意味を認識できているのかも怪しい,つまり芸術であるかすら怪しくなる.
でもこれは芸術のリテラシーというよりは,言語のリテラシーに近いかもしれない.

音楽だともっとわかりやすいかもしれない.
音は実際のところ,振幅と周波数というふたつの実数のパラメーターを持つ波でしかない.
詳細には振幅には器械的な限界があるし,周波数にも可聴域という定義域があって,その範囲は無限ではない.
しかしながら,その範囲の中には無限の(量子力学に依ると厳密には量子化されるそうだが)値を持つ.
それを西洋音楽理論では,周波数に基準を設けて12乗根倍毎に音階というものをつくり,調性やら和声やらについて理論を構築した.
美しいメロディーの数多がそれによって生まれ,巨大な西洋音楽史が構築されてきた.
そこで考えてみてほしい.西洋音楽理論による解釈は,つまり西洋音楽のプロトコルは,我々の音のすべてか.

私は違うと思う.例えば日本民謡には西洋音楽理論には存在しない音がある.
或る人は,ピッチがそれを内包していると言うかもしれない.しかしピッチはあくまで西洋音階からわざと外して強調する技法であり,そこには西洋音階という背景が存在している.
そうではない.根底から違う音が,そこにはあるように思う.

協和音よりも不協和音の方が美しいと思う文化がある.
その文化にある音楽もまた美しいものであって,芸術なのではないか.
この事例に対して,西洋音楽においても過去に不協和音であったものが協和音として受け入れられたことや,12平均律では協和しないとの指摘があった.それは昔の理論の残骸による解釈を現代まで引きずっている証拠ではないか.

元来,西洋音楽理論は何を目的としていたか.
それは,まぐれで生まれた美しさの理論付けとその再現性の確保ではないのか.
理論は音の芸術の一部を一面的に圧縮した地図であり,それが音の芸術が伝わるために必要であることが必ずしも適切ではないのではないか.

もう少しお付き合いいただきたい.
視覚的な芸術についても述べておきたいのだ.

ここで言う視覚的な芸術は,一般に言う美術のようなものだと思ってもらえば良い.美術というと表現の美しさまたは美しさの表現の追求と混同しそうになるので避ける.個人的に美術に否定された過去があるという理由もある.
そういう視覚的な芸術,これにもリテラシーが存在するように思う.
もし,誰かが大きな羽が背中から生えたグラマラスな女性をキャンバスに描いたとする.するとこれは「天使」を描いた絵だと思われる.
その人は天使を意味せずに,ただ女性が自由に羽ばたいてほしいという意味で書いたのかもしれない.でもこれは天使となる.
もしかしたらその人は羽なんてものを見たことなくて,ただふわふわとした毛が密集していて心地よさそうだと思って描いたかもしれない.
もう良いか.これが私が視覚的な芸術にもリテラシーが存在すると考えてしまう理由だ.

リテラシーがある.それは悪いことではない.批判をする気もない.
けれども,そのリテラシーは,そのプロトコルは,表現の一面的な解釈の道具に過ぎない.
リテラシーは芸術ではないし,それを使う必要性はない.
私は道具が芸術みたいに歩き出すのは嫌だ.
表現を通じて受手の心に深く刻むことが,芸術の為すことなのであれば,それがリテラシーに依存するのはあまりにも残念なことではないか?