スポーツ観戦
2025/09/07
私の実家にはテレビが有る。そこまで大きくもないけれど、三人家族には十分な大きさだ。
食事に呼ばれ、テレビがあるリビングに行くと、世界バレーボール女子の3位決定戦を中継していた。
日本代表の方々は懸命に戦っていたが、ブラジル代表の方々も懸命だった。
私はなんだか、これを見ているのが辛くなってきた。
自分のルーツが日本だから、今住んでいるのが日本だから、そういう理由で日本代表の肩を無条件に持っている自分が不思議だった。
日本代表に得点が入ると「よっし、頑張れ」という気持ちになったし、ブラジル代表に得点が入ると不安感の籠もった「頑張れよぉ、負けるなぁ」という気持ちが湧いた。
そんなふうに一喜一憂する自分がなんだか申し訳なくも思えた。
私は普段の練習はおろか、この大会の一回戦からですら、彼女らの姿を応援してはいないのだ。
なのにメダルが懸かった試合の途中から見て、いっちょ前に一喜一憂している。共感するフリをしている。
それはあまりにも、普段から頑張っている日本代表の方々に失礼なのではないかと思った。
結果は、負けだった。私には、「いや、頑張ったと思う。よくやった」などとは到底言えない。
一番悔しいのは彼女らだろうし、殆ど何も知らない私が精一杯やった彼女らに言えるのは、私の精一杯の応援の声くらいだろう。
私はしんどくなってしまった。それは彼女らに対して今まで挙げた行為の中でもとても失礼なことだから、あまり言うべきでないとは思う。
けれども、私はスポーツ観戦をすると、とてもしんどくなってしまう。
行き過ぎた応援と、偽の共感が双方から私の神経をすり減らしてしまう。
ときどき、勝敗のないスポーツがあれば良いのにと本気で思う。
そうしたら、誰も苦しい気持ちにならないのに。
剣道の大会のときもそうだった。会場に居る数千人のうち、約半分は一回戦敗退という結果を背負って帰る。勝って当然みたいな雰囲気に、居場所を失った帰路に就く。
やはり私は、ニュースで結果を知って「そっか頑張った人が居るんだな」と思って、こうして温かな茶を飲みながら筆を走らせるくらいが性にあっているのかなと、そう思った。